その瞬間、杏香さんに掴まれていた頬の圧迫感がようやく解けたが、すぐに別の力強い手に身体を捕まれ、乱暴にベッドへと放り投げられた。 ボスン、と柔らかなベッドが私の身体を受け止め、着地の衝撃を和らげてくれたけれど、恐怖と緊張で手足は固まったまま動かない。頭では逃げなきゃと必死に思うのに、全身が鉛のように重く、抵抗することすら叶わなかった。 目を開けると、私を襲おうとしている男がいやらしい表情で舌なめずりをしながら、私の肌に触れようと迫ってきていた。その横で杏香さんが、冷たい笑みを浮かべながらカメラを向け、淡々と映像を撮影している。「もっと泣き喚いてくれないと、映像に迫力が出ないわぁー」 冷酷で残忍な言葉を平然と言う彼女を見て、背筋が凍りつくのを感じた。 この人は本物の鬼畜だ。 こんなにも残忍で冷酷な義姉を、一矢はずっと二人も抱えてきたのね。幼い頃からずっと、彼はこの家でどれだけの恐怖と孤独に耐えてきたのだろう。もっと早く気づいて、彼の傍にいてあげればよかった。こんな時にそんなことを考えてしまう自分は、現実から目を逸らそうとしているのだろうか。でもどうしても、一矢の顔が浮かんでしまう。 その瞬間、男の手が無遠慮に私のドレスの胸元へと伸びてきた。 一矢、中松、お願いだから早く助けに来て。 嫌。 一矢以外の男に触れられるなんて耐えられない。 喉が詰まって声が出せなくなり、その代わりに涙だけが次々と頬を伝って流れ落ちた。男の手がドレスを引き裂こうとしている音が耳に届き、次に自分自身も同じ運命を辿るのだと予感した。 一矢。 あなたと約束したのに、誰にも触れさせないって誓ったのに。 でも今、別の男たちの手が私の肩にかかり、小さな胸を隠している下着を強引に剥ぎ取ろうとしている。 あなたに守ると誓った約束を、私は今、破ってしまう。 こんな形で、あなたを裏切ることになるなんて。 守れなくて、本当にごめんなさい。「マグロねぇ。映像がつまらないし、時間もないから、さっさと処女貫通させちゃいましょうか。クスリは後回しでいいわ。とりあえず、正気で絶叫する姿が欲しいの。一矢だって、きっと少しはショックを受けるでしょう?」 杏香さんの口からは、耳を塞ぎたくなるような残酷で非情な言葉が次々に吐き出される。同じ女性がこんな酷いことを平然と口にできるなんて。 こ
「その女、処女みたいだから面倒だったら、最初からクスリを盛っても構わないわ」「かしこまりました、杏香様」 処女が面倒? クスリ? 盛ってもいいって、一体どういうこと……? 信じられないほど残酷な言葉が次々と耳に入ってきて、私は呆然と立ち尽くした。杏香さんの美しく整えられた表情はまるで冷酷な仮面のようで、慈悲の欠片も感じられない。その現実に私の頭は完全に混乱してしまい、胸の中は恐怖と焦りでいっぱいになった。 なんとか逃げ出す方法を考えようとするが、頭の中は真っ白で、なにもいいアイディアが思い浮かばない。「こ、こんなこと……犯、罪よ……っ! う、うっ……訴えてやるんだから!」 私が必死に震える声で抗議すると、杏香さんは私をバカにするように鼻で笑った。「訴える? ふん、笑わせないでちょうだい。何の権力も持たない小娘が、強姦を訴えたところでこちらにもみ消されるだけよ。世間に笑い者にされ、もっと辛い思いをするだけだわ。一矢も本当にいい気味よね。大切な婚約披露のパーティーで新婦がこんなスキャンダルを起こせば、彼ももうおしまい。三成家からも完全に追放されるでしょうね」 杏香さんは薄く笑いながら、氷のように冷たい言葉を次々と口にした。 目の前にいるのはまさに本物の悪魔だった。――いいですか、伊織様。本物のGPSやボイスレコーダーの存在を気づかれてはいけません。偽物の場所を教えてください。私に繋がっていると相手に信じさせ、なんとか時間を稼ぐのです。貴女に危険が迫ったとき、私は命を懸けて貴女を守ります。必ずお迎えに上がります。 震える身体で中松の言葉を必死に思い出した。私がいなくなったことに中松が気付いてくれれば、必ず居場所を突き止めて救いに来てくれるはずだ。本物のイヤリングに隠された監視カメラやGPSの存在を悟られては絶対にいけない。 声が震えることを止められないまま、なんとか叫んだ。「こ、この会話、ぜ、全部録音してるんだから! う、嘘だと思うなら、私のド、ド、ドレスのリボンのところを調べなさいよ! アンタの悪事は全部、中松に通じてっ――……!」 極度の緊張と恐怖のため途切れ途切れになった私の言葉は、最後まで続かなかった。杏香さんの鋭い指が私の頬を強く掴み、言葉を封じ込める。その冷たく澄んだ瞳が、私を虫けらのように見下ろしていた。「本当にうるさい女ね。
高速エレベーターを降りた先は、フロアの絨毯が一際重厚なものに変わった。恐らくVIP顧客しか泊まらないような、ロイヤルスウィートの部屋がある階なのだろう。私は生まれてこの方、こんな場所に立ち入った事は無い。空気が違う。土足で歩くのが勿体ないくらい、高級な絨毯なのだろう。 杏香さんはカードキーを取り出し、今日宿泊するであろう部屋の扉を開けた。入るように促されたので、失礼します、と伝えて中に入った。 中は入り口から広く、贅を尽くした極上ルームだった。かなりの広さを誇るデラックススイート。お金持ちしか宿泊できないそこは、上品な調度品が施されていた。入口から奥に見えるベッドは白く、さぞかし心地よく眠れるのだろう。一矢の本家みたいな部屋だと思った。全面ガラス張りで夜景は独り占め。空調も快適で言う事無しだ。一度でいいから家族全員でこんな部屋に泊まってみたい。みんな喜びそうだ。まあ、絶対にできないと思うけど。家族多いから。 お金持ちは、こういう贅沢空間が当たり前なのだろう。庶民が迂闊に泊まれるような部屋ではない。相当な記念日でさえ、こんな部屋に軽々しくは泊まったりできない。一人当たりの宿泊費用は、グリーンバンブーの基本八百円の定食が何回食べれるのだろうとか、貧乏ったらしい考えではすぐに算出できなかった。百食・・・・いや、二百食以上はゆうに食べれるだろう。所詮その程度しか概算できない。「一矢をどうやってたらしこんだの?」「はい?」 鍵をかけた途端、杏香さんは豹変した。口調も柔らかいものから、すごくキツイものに変わった。 「だから、一矢をどうやってその貧相な身体でたらしこんだの、って聞いているのよ」 貧相…。中松だけでなく、三成家の人間は私を心のある人間として扱ってはくれないのだろうか。「お言葉ですが、一矢とは関係を持っておりません。純粋に彼も私を好いて下さっています。私も彼が――」 そこまで言った途端、杏香さんは高笑いを始めた。「あーっはっは、おかしいわぁー」 なにがおかしいのよ。失礼しちゃうわ!(怒)「まさか男女関係もまだなんて! まさか伊織さん、貴女、処女?」「……いけませんか」 思わず正直に答えてしまったら、更に笑われた。「いけなくないわよぉー。寧ろオーケー!」 腹立つわあ。「だったら尚更プレゼントは大切ね。さあ、奥へ進んで」「あ、いえ、
「あら、花蓮さんじゃないの。ごきげんよう」 声が掛かったので二人で振り向くと、一矢の義理のお姉さま、杏香(きょうか)さんが立っていた。一矢と全然似ていない。まあ、腹違いでもここまで似ていないのかというほどだ。だから一矢をかわいがれないのかもしれない。 彼女は嫌味で高慢。性格の悪さが滲み出ているような雰囲気で、せっかく綺麗にしているのにまったく美しいとは思えない。一重の目はきつく狐のように吊り上がっていて、長い髪の毛をまるで銀座のママのようにきちーっとセットしていて、ガチガチに固めている。お風呂でセットを崩すのが大変そうというのが印象。高級ブランドのめちゃくちゃ高そうなスーツに身を包んでいて、全身隙が無い。 私、この人嫌い。 もう一人のお姉さまの柚香(ゆずか)さんも同じような雰囲気で嫌い。一矢を幼い頃から酷い目に遭わせてきたのだもの。だから許せない。 けれど、私を本家に紹介して顔合わせする必要があるから招待せざるを得なかった。まあ、一番の目的は本家に堂々と申し入れすることだから。呼ばないわけにはいかない。本家だけに出向くと何をされるか解らないので、敢えて人目の多いホテルを選んだとのこと。中松が手配してくれた。 「杏香様、ごきげんよう。お久しぶりでございます」「花蓮さんも気の毒ねぇ」 杏香さんが頬に手を当てため息をつくように言った。私みたいな無血統女に一矢を盗られてしまって、みたいな嫌味が続くのだろう。流石にこの場では言われなかったが雰囲気でわかった。こんな時、どんな顔をすればいいのか、中松に教えてもらっておけば良かった。 まあ、中松なら涼しい顔をしているだろう。どんな嫌味を言われても気にせず、堂々とするのがあの男だ。私もそうしよう。 「伊織さん、でしたわよね。丁度良かったわ。お祝いを渡したいのだけど、一矢に渡しても受け取らないと思うから、貴女にお渡しするわ。高額なものだから部屋に置いてあるの。一緒に来て下さらない?」「あ、はい。承知致しました。ここを離れるので、中松に声をかけて来ますのでお待ち頂けますか?」 うええー、ほんとは行きたくないよおおー。でも嫌って言えないよね。一応、義理姉にあたるお方なんですもの。「すぐ済むからいいわよ。いちいちあの嫌味男にいわなくても。それに私、待たされるのは嫌い」「は、はい…」 杏香さんでも中松は
とりあえず今日は取引先やその他、一矢を懇意にしている方々へのお披露目らしい。お披露目というより、むしろ虫よけ的な扱いだと思う。令嬢は三条家の花蓮様みたいにご自身が一矢を好きであったりとか、ご両親の思惑で娘をあてがおうとしている方が、非常に多いだろう。 一矢の会社が軌道に乗り出してから、特に増えたと聞いている。 三成家との繋がりや、人気のある一矢自身と関係を持ちたいからだろう。一矢が好きならまだしも、彼の持つ地位や財産目当ての見合いは、彼自身がうんざりしているのは知っていた。本当に大変だと思う。だからニセ嫁に仕立て上げた私を使って、それをけん制したかったのだろう。お金持ちというのは、色々大変だ。 そんな一矢に挨拶するべく、フロア内にあるラウンジに何人か集まっているらしいと聞いた。一矢は既にそちらの方に向かって来客の対応をしているらしい。私も顔を出しておいた方がいいと思って、中松と美緒に断ってそちらへ行くことにした。 マスコミの方も来るとか。本当に緊張する。見てくれは令嬢っぽくなったけれど、喋ればすぐニセってバレそうだ――と、そんな風に思いながらラウンジへ向かおうと思って歩き出した私に、ごきげんよう、伊織様、と声を掛けられた。花蓮様だった。 身構えていると、向こうから頭を下げて謝罪された。「先日は失礼を致しました。本当に申しわけありません、伊織様。無礼を致しましたこと、お詫び致します」「いいえ、花蓮様の言う事は本当の事ですわ。一矢に相応しくないと思っているのは、皆様以上にこのわたくし。誰にも負けないのは、彼を大切に想う気持ちしかございません。お気持ちはお察し致します。どうか、あの時のことはお気になさらないで。もう済んだことではありませんか」 きちんとした令嬢として、話ができているかしら。鬼に叩き込まれた言葉遣い、間違っていないか心配だ。「三条の…」花蓮様が声を震わせながら言った。「こちらとの関係が悪くならない様に計らって頂いたのは、伊織様だと伺いました。あんな無礼を働きましたのに、三条家をご配慮頂きましたこと、父に代わってお礼申し上げます」 ああ。この前掛かってきた三条氏からの電話、中松から内容を聞いたら、一矢が本気で怒って三条とは今後取引全面停止、とことん追い詰める、みたいなことを言い出したから、絶対止めて、そんなことをしたら三条家で働く人が
――イヤリングの右側には監視カメラが、左側にはGPSが内蔵されています。決して外したり、他人に預けたりなさいませんように。 私はその注意書きを確認すると、小さく頷いて慎重にイヤリングを身に着けた。ブラックパールの真珠部分は、カメラを巧妙に隠すため通常より一回り大きく作られているが、その内側に仕込まれた超小型カメラは、ごく至近距離で凝視されない限り気づかれないほど巧妙な出来栄えだった。精緻に施された色合いやデザインも、普通の宝飾品と変わらない美しさだ。 イヤリングを着け終えると、中松が改めて私の装いをじっと見つめながら口を開いた。「おや、イヤリングが予想以上に大きいためか、首元が少々淋しく見えますね。伊織様、本日のドレスには、もう一つ華やかなダイヤの首飾りをお付けしましょうか」 彼の言葉に応える前に、ちらりと時計に視線を落とす。パーティーの開始は午後六時。まずは一矢の挨拶があり、その後、婚約者として紹介を受けて私が挨拶をすることになっている。その後乾杯の音頭があり、歓談と立食形式で食事を楽しんでいただく流れだ。締めには改めて一矢が挨拶を行う手はずである。 現在の時刻は午後五時ちょうど。かなり早めに準備を始めていたおかげで、まだ時間には余裕があった。 本日の会場は、日本を代表する大企業とアメリカの大手ホテルチェーンが合同で経営している人気のウェスティンホテル。料理の美味しさだけでなく、華やかなスイーツバイキングも評判で、今回のような商談を兼ねる立食パーティーには最適な場所だという。一矢が選んだのは、その中でも特に眺望が美しいと評判のフロアだった。着席スタイルなら百五十人ほど、立食なら二百人以上が余裕で収容可能だと聞いている。 実際にどれほどの人数が招待されているかは私は把握していなかったが、招待状を持っていない者は、身内であってもこのパーティーには一切入れない仕組みになっているそうだ。今日は主に一矢の会社関係者や取引先、一矢と個人的に親しい方々が招かれていると聞いていた。 もっとも、今回の婚約披露パーティーの目的はただのお披露目ではない。むしろ、一矢を取り巻く有象無象の『虫よけ』の意味合いが強い。花蓮様のように、一矢自身を慕う女性や、その娘を一矢にあてがおうと狙う家族も非常に多いと聞く。一矢がビジネスで成功を収め、会社が軌道に乗り始めてからは、特に